たまに、「女であることを言い訳にしているだけ」というセリフを聞くことがあります。

このセリフには「女性の社会的地位の低さを言いわけに、十分にがんばっていない」というニュアンスが込められていると思います。
なかには、こうしたセリフによって「反骨精神」がふるい立つ人もいるかもしれません。
ただ、性格によっては、世の中から切り捨ててられてしまったように感じるかもしれません。
困難と戦う大変さの度合いは、人によって違う
現代の日本にも、まだ男女の格差があることは事実です。差別と言いかえてもいいです。
差別されながら生きることは、差別されないで生きるよりも困難です。
そして、困難に出会ったときの反応は、性格によって違うのが自然です。
もともとの性格によって、困難に強いタイプや弱いタイプなど、いろいろいます。
ところが、まったく同じ困難に立ち向かうにしても、大変さの度合いは人によって違うのに、残念ながら、同じと思われがちです。
こうした誤解をとくのにも、エニアグラムは有効です。
同じパワーを求めるのは、違うと思う

もちろん、他のタイプと比べて困難に強いタイプの人たちも、想像をぜっする苦労をして、勝ちぬいたり生き残ったりしてきたと思います。
ただ、もともと困難と戦う適正がとぼしい人に同じレベルを求めることは、それよりもさらにコクだということです。
「火事場の馬鹿力」という言葉があるとおり、絶対に強くなれない、ということはないと思います。(「強い」という言葉の定義もいろいろありますが…)
誰しも困難に立ち向かわなくてはいけない時があるし、そういう時は戦うべきなのだと思います。
ただ、戦う適性が高い人と同じくらいのパワーを、適性のとぼしい人に求めるのは、ちょっと違うと思うのです。
「自分が味わっている苦労を、あなたも味わうべき」の違和感
私は、先陣をきって大変な苦労をし、道を切りひらいた女性たちに「いけいの念」を持っています。
一方で、「私が大変な経験をしてるんだから、他の人たちも同じような経験をしなきゃおかしい」という考えには違和感を持ちます。
同じレベルの強さを、全ての女性に求めるのではなく、一人一人に得手不得手があるのを理解して、助け合っていく社会のほうが、みんなが幸せになると思います。
おぎない合うことで、社会全体が得する

実は、困難をのりこえ、道を切りひらいていくタイプの人たちにも、どうしても苦手なことがあるものです。
そういった苦手なことが得意なのが、実は、戦う適正がとぼしい人たちだったりします。
もしかしたら、最前線で戦う女性のサポート役として、すばらしい仕事をしてくれるかもしれません。
人類はおぎない合うことで、成立してきた面があるのだと思います。
それぞれに適した場所で、もっとみんなが力を発揮できるようになれば、社会全体が得することになるはずです。